花魁(おいらん)とは
遊郭の遊女には位があり、最高位の遊女を太夫という。江戸の吉原遊郭では太夫が消滅した宝暦以降は高級遊女を花魁といった。花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていてとても賢く多才な人物であったことは間違いないでしょう。
花魁を揚げる(買う)には莫大な資金が必要であり、一般庶民には到底手が出せないものでした。花魁の側も禿や新造を従えているので、自分の座敷を維持するために多額の費用を使っていたそうです。
お座敷では、花魁が上座に座って、お客さんが下座に座っていたそうです。花魁はお客さんよりも位が高い存在だったことが分かります。
名称の由来「花魁」
その名の由来には諸説ありますが、妹分の遊女が姉の遊女に対し、「おいらの所の姉さん」という風に読んだことから来ていると言われています。上級の遊女に対して、そこに出入りする奉公人だけではなく、お客さんたちも「花魁」と呼んでいたそうです。「花魁」という呼び名は、吉原独特の呼び名だったと言われています。
✓遊女…「遊女」という呼称は古くからあり、芸能に従事する女性一般を指したものであり、元来花魁などの呼称ではなかった。近世になると、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)といった呼称もあらわれる。遊郭の遊女には位があり、最高位の遊女を太夫という。江戸の吉原遊郭では太夫が消滅した宝暦以降は高級遊女を花魁といった。
初会、裏、馴染み
花魁などの高級遊女とされている遊女はとても人気者なので、ある3つの手順を踏む必要がありました。それは初会、裏、馴染みの3つの手順です。
- 初会…1度目では、花魁はお客さんとは距離を置き、一緒に飲食をすることもなく、口すらも利かない。
- 裏…2度目では、少しだけ近くに寄るものの、その他はほとんど1度目と同じだったと言われている。
- 馴染み…3度目にしてやっと認められ、お客さん自身の名前の入った箸とお膳が用意されたそうです。床入れも3度目からとなりますが、馴染み金というご祝儀を支払わなければならず、更に、馴染みになると、他の妓楼(ぎろう)の遊女に会いに行くことは出来なくなるそうです。
馴染みのお客さんは1人の遊女に対して複数おりますので、指名が重なってしまうこともあります。その時は、あるお客さんは遊女に放っておかれ、あるお客さんは寝床に遊女が来るという事がありました。放っておかれ、棒に振られることを「ふられる」といい、また、寝床に遊女が来てくれることを「もてる」といったそうです。遊女に会える場合にも1人で眠る場合にも、同じ揚代が必要だった為、怒り出すお客さんもいたそうですが、基本的にはそれは粋ではなく、ふられる事も分かった上での駆け引きを楽しんでいたそうです。
✓妓楼(ぎろう)…遊女を置いて客を遊ばせることを業とする店。遊女屋。女郎屋。妓楼にも、大見世、中見世、小見世の3種類に分けられます。それぞれのお店によるランク付けがあり、そのお店によっても、遊女の揚代は異なっていたそうです。唯一、公に許可が出されていた吉原は、岡場所など、その他とは違い、格式が高いと認識されていました。
遊女の一生
また、吉原で働く遊女は、最終的にどのような人生を送っていたのでしょうか。美しさにも恵まれ、人気も兼ね備えたほんの一部の遊女だけが身請けされ、ほとんどの遊女は年季が明けるのを待っていたそうです。吉原の遊女には、年季は最長で10年、27歳までというルールがあったそうですが、10年を終えても、違う妓楼に売られてしまうこともあったりそもそも病気や栄養不良など、さまざまな原因により、健康なまま年季を明ける遊女は少なかったそうです。
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